2010年3月12日を以て、
嵯峨野線から
113系が
引退しました。
↑最終日の113系。保津峡駅にて
私は現在、高校2年生。まもなく高3に進級しようとしています。
思えば自分の洛星生活は、113系とともにありました。
2005年、洛星中学に入学。初めての電車通学。
「嵯峨野線」という乗り慣れない路線。これに毎日乗る、ということに心躍らせた日々。
当時の嵯峨野線は、ほぼ全線単線でした。複線区間はごく一部でした。
当時から複線化工事の話はあったでしょう。計画も着々と進行していたことでしょう。
しかし、単なる一乗客でしかない私からそんな様子は見てとれるものではありませんでした。
京都駅の頭端式ホームを出た113系は、すぐに単線となって東海道線の複々線に別れを告げ、茶色いバラストに敷かれた線路を走ります。
貨物営業があった時代の面影を残す丹波口駅は、高架であるにも関わらず古さを感じさせるものでした。
丹波口駅を出てまた単線となる、あのポイントにも風情がありました。
都会上空を貫く古びた単線、そこを昭和の走行音でもって走る国鉄の車両。当時から違和感がありました。
だからこそ私は、「山陰線」にどこか惹きつけられていたのかも知れません。
中2の夏。複線化工事が行われていることに初めて気付きました。
以来、嵯峨野線を利用する度に、すぐ隣で行われている複線化工事を積極的に眺めるようになりました。
京都~丹波口間にせよ、丹波口~二条間にせよ、進捗率の差こそあれ工事は着実に進んでゆきました。
コンクリートを固めて橋脚を積み上げ、その上に高架橋を構築する。
最初は断片的でしかなかったものが、徐々に接合され形になってゆきました。
山陰線に221系の新風が吹いたのは、この頃だったでしょうか。

↑嵯峨野線に入った221系。馬堀駅にて。
221系の運用開始は、2008年春。中学卒業、高校入学の年。ちょうど私の洛星生活の折り返し地点に当たります。
琵琶湖線から乗り換えて京都駅の山陰線ホームに来れば、113系がテールランプを光らせて発車を待っている。
これまで3年間の洛星生活で見てきた風景はそれでした。
ですから、当初は大いに違和感を覚えたものです。
どことなく古めかしい、京都駅の山陰線ホーム。
似つかわしいのは113系。JRの車両は近代的すぎる。
221系を見る度に、「山陰線」が「嵯峨野線」となってきていることを感じました。
113系は短期間で大幅にその数を減らし、代わって嵯峨野線には221系が幅をきかせることとなりました。
221系が投入されたその年のうちに、113系は2編成にまで減らされていたのではないでしょうか。
そして昨日、2010年3月12日、113系はラストランを迎えました。
中1の頃から慣れ親しんできた嵯峨野線。その嵯峨野線には、もはや山陰線は走りません。
私の洛星生活は、嵯峨野線とともにありました。
私は洛星という学び舎で教えを受けてきました。同じくして、山陰線も成長を遂げてゆきました。
ここ数年で、山陰線は大きく近代化への道を歩んだように思います。
「全線複線化」と「車両の近代化」。
言葉にすればそれだけかも知れません。しかし、それはとても大きなことだったのです。
いま、山陰線は大人になりました。山陰線は嵯峨野線になりました。
昔の面影を残しつつ内面的には大きな成長を遂げた青年のように。
かつて、私の使っていた路線は「山陰線」であり「ローカル線」でした。
いま、その路線は「嵯峨野線」という「通勤路線」に生まれ変わっています。
最近、嵯峨野線を自らに重ね合わせてしまいます。
私の10代は、山陰線の成長とともにありました。それゆえ、山陰線、嵯峨野線には特別の思い入れがあります。
山陰線は大人になりました。それゆえ、今日「成人式」が行われました。
記念列車の発車に合わせ、京都駅ではセレモニーが行われました。
嵯峨野線の門出を祝う、セレモニーが行われました。
私の洛星卒業も、もはや遠い話ではありません。
1年ばかり先を越されましたが、嵯峨野線も私も、未来への大きな一歩を踏み出そうとしています。
嵯峨野線とともに成長できて、本当に幸せでした。

書いた人:H.K(54期 高2)